「痛いなあ」
そう言うわりに抑揚のない声だ、とオーストリアは思った。
上目遣いに表情を見ると、相変わらず憎たらしいほどにこやかな笑みがある。
「何のつもりだい?」
顎を捕まえられ、オーストリアはロシアを真っ直ぐ見た。
彼の首元からはつーっと血が垂れ落ち、マフラーに小さな小さな血溜りをつくっている。
そしてそんな傷をつけた加害者のオーストリアの唇からは、血痕が一つ二つ。
「仕返しです。昨日の夜、私も貴方に足首を傷つけられましたから」
そう言うオーストリアの足首は、ちょうど腱のところにくっきり噛み痕があった。
水色がかった紫が、歯形のくぼみにそってぼやけて浮かんでいる。
「仕返し、か。君、案外子供みたいなところがあるんだね」
そう言い、楽しそうに笑いながらオーストリアの足元に跪いた。
右足をしっかりと掴んで、噛み痕に口付ける。
「けれどね、これで君が歩けなくなってしまえばと思ったんだ」
しかし痛かったろう、ごめんね。
舌が噛み後を辿る。絡みついた唾液が傷口に痛くて、オーストリアは顔を顰めた。
「ねえ、ここにずっといてよ。僕ね、君にならとびっきり優しくしてあげられるような気がするんだ」
「お断りします」
間髪入れず、オーストリアは言ってやった。
彼は悲しそうな表情をし、いまにも泣き出しそうな顔になった。小さな子供みたいだ。
「そんなこと言っちゃうと、足の腱噛み切っちゃうよ」
捕まえられた右足が、途端に痛み出したような気がした。
ロシアなら本気でやりかねないだろう。オーストリアは思う。
怖くない。そう思おうとしたが、どうにもできなくて心臓が破裂しそうにどきどき鳴った。
大声を出せば、ハンガリーやドイツや誰か来てくれるかもしれない。
だけど、長く調律されていない楽器のように、まるで喉が役に立たなくて声が出なかった。
「……なんて、冗談」
冷たい手がパッと右足を離す。けれど、ロシアの顔は笑っていなかった。
「けれど、二度と僕に歯向かっちゃいけないよ」
オーストリアは返事もろくにできなかった。
「じゃあね、また」
そう言い、ドアが閉まる。足音が遠ざかっていき、やがて消える。
絨毯には彼の首元から流れた、赤い血の血痕が残っていた。
(それは彼の帰る道を示すものでもあり、また今度彼がやって来るときの道すじを示すものでもありました)